平和について
コーヒーがおいしいなあと思ってゆっくりしていたら、家を出る時間が遅くなってしまった。
これは電車に間に合わないぞ、と、駅までの道を走ることにした。
走ることにして走り始めて、ふと、久しぶりに走ったなぁと気がついた。
そうしたら、自分の足で進んでいるのに、景色が進むのが速いことがとても面白くなってしまって、へらへらしながら、速く進む景色を見ていた。
急いでいるのを忘れてしまって、でも、電車にはゆとりを持って間に合う時間に駅に着いた。
本当は、電車の時間を調べずに、それでも間に合うように家を出るのが一番好きなのだけど。
電車にぼんやり揺られていたら、電車を降りる男の子が車内に帽子を落としていった。
イヤホンをしていて気がつかなくて、車内の近くの座席の人たちはみなどうしようかとドアが閉まるまでの一瞬にしてざわついたのだが、わたしは思わずその帽子をホームに投げた。
男の子は気がつかず、近くの座席の女の人と、また別の女の人と、若い夫婦と、みんなで男の子に手を振ったのだけど、やっぱり気がつかなくて、わたしが投げてしまった帽子はホームに取り残された。
わたしの隣の女性が、「いや、ナイスプレーでしたよ」と言ってくれた。
「失敗しました。自分の降りる駅で駅員さんに渡せばよかったですね」と言うと
「いえ、わたしでもああしていました」とフォローしてくれた。
ありがとうございます、と言った。
電車に乗っていると、時々こうやって、ばらばらの他人たちが一瞬で団結する瞬間に出会う。
それはほんの一瞬で、解散するのも一瞬で、次の瞬間にはまた、同じ場所に座っているのにもう話しかけられない他人なのだけど。
でもこういうときいつも、本当はこういう、一人一人がいるところにいつだって暮らしてるんだよなと思って、心強く、また、畏れを抱く。
男の子、帽子にちゃんと、また会えますように。投げてすみません。