土を忘れていない茄子

ごはんを作る時間が久々にある。

ごはんが作れる。

なぜこんなに、ごはんを作るのは気持ちがいいんだろう。

しあわせというより気持ちがいい。



生きた魚をしめる瞬間を見た。

わたしはまだまだ魚が捌けない。

生きた魚をしめる瞬間を見るとき、そうして魚を食べて生きてきたと当然わかっているはずなのに、かなり新鮮にドキッとする。

それはきっと物凄く単純に、死の瞬間、生が終わる瞬間、その瞬間をまさに目の当たりにするからなんだと思う。

単純だけれど、単純なあまり、
その瞬間という、針のような細さの時、生と死を分けるそのほんのほんの一瞬が

ガンと刺さって、くらっとくるのだと思う。



そうして思い返すと、料理をするときの、しあわせというより、気持ちいいという感覚は

おそろしくも、殺生の先にあるのかもしれないと思えてくるときがある。

自分で書いていておそろしい。

だけどそれは、単に生命を奪うことや、その瞬間の刺激に対するものでは無いはずだ。

料理には、生命を奪って、その刺激を直に受ける所から始まって
それを自分の手で食べられる形にし、
自分の命に変えるところまでが含まれている。

その一連を辿るとき、わたしは「気持ちいい」と思う。

それは、鉢植えの植物に水をやってしばらくすると水がじょろじょろ流れてくるのを見ているときや、運動をしてたくさん汗をかいて水を飲むときの気持ちよさに似ている。 

そうは言えても、まだなんの気持ちよさなのかわからないので、おそろしくもある。



この春から畑をやっている。

血が流れなくても、土からつながっていた実を切り離す瞬間は、どきりとするものがある。 

明確に、何かをこの手で終わらせた責務が、わたしのなかに入ってくる。

だから、できるだけその実が土を忘れないうちに食べなくてはと思い、料理を急ぐこともある。

茄子がよくとれる。

紫よりも緑が眩しく、ぷりぷりきゅっきゅとにぎやかな音が口の中でもしている。

畑の話は、いずれ期が熟すときがきたら。