夏の終わり
夏は別れが多い。
言葉にするのも陳腐すぎてしていなかったけど
しなきゃしないで過ぎ去るのもこわい。
今年観た演劇、スリーピルバーグスの『旅と渓谷』で、死別について「悲しむな、寂しがれ」と表現していた。
自分の目の前にやってきた死別に、確かに居ないという事実にどう応えていいかわからなかったとき
ふと「寂しいね」と声をかけられて、
そうだ、「寂しい」のだ、とおもった。
言葉にするのも陳腐すぎてしていなかったけど
しなきゃしないで過ぎ去るのもこわい。
今年観た演劇、スリーピルバーグスの『旅と渓谷』で、死別について「悲しむな、寂しがれ」と表現していた。
自分の目の前にやってきた死別に、確かに居ないという事実にどう応えていいかわからなかったとき
ふと「寂しいね」と声をかけられて、
そうだ、「寂しい」のだ、とおもった。
おもいだした。
わたしは、死をざんねんがったり悲しがるのが嫌だなといつも思う。
生きてきたことを讃えたい気持ちの方がつよいから。
だけど
心で存在を思うことができても
よく知っている声を聞くことや、背中を見つめること、傍に居るだけで伝わる温度を感じること、些細な表情の動きを見つめること、
交わすことが、もう二度とできないのは、やっぱりとてつもなく寂しい。
それでも、それだけ、寂しいと思うだけの
確かな感覚や記憶があることは、本当に嬉しい。
そしてぐるりとまわってまた、生きてきたことを祝う気持ちがたくさんある。
寂しいけれど、心から祝っているし、祈っている。
心で存在を思うことができても
よく知っている声を聞くことや、背中を見つめること、傍に居るだけで伝わる温度を感じること、些細な表情の動きを見つめること、
交わすことが、もう二度とできないのは、やっぱりとてつもなく寂しい。
それでも、それだけ、寂しいと思うだけの
確かな感覚や記憶があることは、本当に嬉しい。
そしてぐるりとまわってまた、生きてきたことを祝う気持ちがたくさんある。
寂しいけれど、心から祝っているし、祈っている。