にのまい
月末は、歯ブラシと、台所のスポンジを変える。
古くなった歯ブラシは、台所の掃除用になる。
スポンジも同様。
今月は、安いスポンジを買ってしまったら、掃除用にもできないほどクタクタになってしまった。
28日間しかなかったってのに。
ちゃんと消耗品にも真っ当なお金を払おうと決意する。
逃げる逃げると言い聞かせていたら、二月は思ったより留まっていた。
時間ってそんなもの。
どこに行っても売り切れだった『おかずのクッキング』を、ついに買う。
フレンチのような美しさとはちがう、きれいな家庭料理が満載で、はじめて雑誌を見ていてお腹が鳴った。
どのページを見ても生き生きときれいで、台所に座ってずっと眺めてしまう。
眺めてふと立ち上がって、そこに載ってる昆布の佃煮を、味噌汁の出汁がらの昆布で作ってみたりもする。
そういう、ふと立ち上がったらできるような、気楽なお料理がたくさん載っているから、日々がすごくうれしくなる。
だけど思えば、ふと立ち上がったって何にもできなかった日も遠からずあった。
一度にたくさんの種類の食材を買うことや、冷蔵庫を開けばいつも何か材料があることが、想像できなかった時が。
簡単なことが簡単じゃないことを、実感としてよく知ってる。
今と以前の実感の差は、自転車に乗れるか乗れないかの違いのようで
以前のわたしにどうすれば良いか、言葉で説くことはできないような気もする。
説く、なんて、過去の自分に対してだって烏滸がましい気もする。
だからなんだということもなく、何ができたから先に進んでいるということもなく、
ただそういう、自転車に乗れるか乗れないかのような、なんとも説明のし難い、生活の心地の差というのがあるんだなあと、個人の体験の中ですら思う。
人間は自然の一部だと思うけど、誰かや何かの駒になっていいとは思えない。
ずっとそんなことを考えてるんだけど
この前者と後者は関係のあることなんだっけ、どうなんだっけ。
自分自身の無力さも、可能性も、凡庸さも、暴力性も…どれも矛盾なく同居してる。
単純化せず、矮小化もせず、混沌を混沌のまま、世界を切り分けもせず侵略もし合わずにいられたらいいのにと思う。
古くなった歯ブラシは、台所の掃除用になる。
スポンジも同様。
今月は、安いスポンジを買ってしまったら、掃除用にもできないほどクタクタになってしまった。
28日間しかなかったってのに。
ちゃんと消耗品にも真っ当なお金を払おうと決意する。
逃げる逃げると言い聞かせていたら、二月は思ったより留まっていた。
時間ってそんなもの。
どこに行っても売り切れだった『おかずのクッキング』を、ついに買う。
フレンチのような美しさとはちがう、きれいな家庭料理が満載で、はじめて雑誌を見ていてお腹が鳴った。
どのページを見ても生き生きときれいで、台所に座ってずっと眺めてしまう。
眺めてふと立ち上がって、そこに載ってる昆布の佃煮を、味噌汁の出汁がらの昆布で作ってみたりもする。
そういう、ふと立ち上がったらできるような、気楽なお料理がたくさん載っているから、日々がすごくうれしくなる。
だけど思えば、ふと立ち上がったって何にもできなかった日も遠からずあった。
一度にたくさんの種類の食材を買うことや、冷蔵庫を開けばいつも何か材料があることが、想像できなかった時が。
簡単なことが簡単じゃないことを、実感としてよく知ってる。
今と以前の実感の差は、自転車に乗れるか乗れないかの違いのようで
以前のわたしにどうすれば良いか、言葉で説くことはできないような気もする。
説く、なんて、過去の自分に対してだって烏滸がましい気もする。
だからなんだということもなく、何ができたから先に進んでいるということもなく、
ただそういう、自転車に乗れるか乗れないかのような、なんとも説明のし難い、生活の心地の差というのがあるんだなあと、個人の体験の中ですら思う。
人間は自然の一部だと思うけど、誰かや何かの駒になっていいとは思えない。
ずっとそんなことを考えてるんだけど
この前者と後者は関係のあることなんだっけ、どうなんだっけ。
自分自身の無力さも、可能性も、凡庸さも、暴力性も…どれも矛盾なく同居してる。
単純化せず、矮小化もせず、混沌を混沌のまま、世界を切り分けもせず侵略もし合わずにいられたらいいのにと思う。