あめいろ

老いる、ということのイメージがあまりはっきりと湧かなかったのは

私が生きた年数があまりに短かったから。

経年、というものを知らなければ
年老いた人を見ても、「年老いた人」でしかなかった。

最近ようやく、人が老いる、という変化を目で見てわかるようになって 

去ってゆく人が生きていたことを知っているようになって

私も、それほどに年を経たのだと思った。



ああ、人生、と思ったのは
私の人生についてではない。

人が、特に、ちかしい人が
人生の岐路に立ったり
岐路でなくても日々元気で生きていたり
生きようとしていたり
何かを選んだり
選ばなかったりしてるのを見て

ああ、人生
と思うようになった。

それは、誰かの幸せを願うとかそんなたいそうなものではなくて

いや、願っているけれど

30年近く生きてみると
自分以外の誰かの人生というものを、ほんの少しは知っている状態になるのだなと思ったのだった。

知っている?
見ている?
感じている?
重みを感じている?

ちょっとぴったりくることばがうかばない。

人の人生なんてわかりっこないのは百も承知の上

ただそれでも、
無関係なものではなく
少しばかりはどこかで接した面があり
ほかの面が
その人の人生という大きな球体みたいなものが
どんどんぐるぐる年輪を重ねて
重みを増していっているんだということを

はだで?
はたで?
感じはするとき

ああ、人生

と、思うのだなあ。



関森絵美ちゃんの一人芝居『ヒューマン 関森絵美』を、配信で観たのでした。

たまらない気持ちになって、今は静かにたまねぎを飴色になるまで炒めています。

まあ、あれだ

生きていて良かったことは
誰かが生きていてくれてよかった、ということから湧いてくるから

私も生きていて良かったですよ。