真っ白な冬



急に、冬が好きになった気がする冬。

昔は寒いし、霜焼けもできるから嫌いだったけど

どうも、この冬の澄んだ空気に、森の香りを思い出すようになって、好きになったみたい。

ここ数年は、冬に遠出ばかりしていて
札幌、長野、山梨…
冬の寒い土地ばかり味わっていたから

おかげで冬はいい記憶の詰まった、あたたかい季節になった。

白い壁を見つめながら、雪一面の円山動物園までの道を思い出したり

人のいない帰り道で空気をクンクン吸い込んで、八ヶ岳の香りを探すのは少し寂しいものがあるけれど

旅の記憶はどこにも行けない時間を助けてくれるものだなあと思う。

去年の暮れから年明けに、やたらに旅をしていたけど

なんとなくのその本能に、今は感謝してる。



とにかく自分の身体をよく見つめる一年で、おかげで、時々の不調の原因をなんとなく見つけることができるようになってきた。

だいたいの原因は、見つかるけど一点じゃなくて

その元を辿ればまた別の元があり、さらにその元を辿れば…と数珠繋ぎのようになっていて

ぐるっとまわっておなじところへ帰ってくる。

その一つ一つの数珠を、じわじわほぐして、ゆるめて、ぐるっと回していくみたいなことをずっとやっている。

身体の声が聞こえるようになるには、ある程度の健康が必要で

でもその健康ってのは
ばりばり不調もなく元気です!ってことでもないんだなあと思った。

まさに体得するしかないのね。

とにもかくにも、無理しないこと、無視しないことですな。

ニュートラルを探す日々はつづく。



自分の身体という、壮大な未知の自然を抱えながら生き続けているのに、うっかりそのことを忘れてしまう。

植物と暮らすようになってより一層、思い返す時間が増えた。

若葉が芽生えて、はじめは半透明でこの世に少ししか存在していなかったのに

だんだんと葉の緑が濃くなり、厚くなり、輪郭がしっかりしてきて、この世に来たんだなあという感じがする。

(これを勝手に、自己の確立と呼んでいたんだけど、ものすごく迷惑で失礼な話だなと思ってやめた)

植物と私は違うけど、植物を見た時、自然に身を置いた時、(こじつけではなく)照らし合わせられる状態の自分でいるというのは
結構大切なことなんじゃないかなと思ったりもした。



八ヶ岳の木々に囲まれながら
ああ、きっとここには私より長く生きたものしかいないんだなあと思ったら

とてもほっとした。

日々の隙間からじわりじわりと、
未知への敬いをひろげながら
知ってることを忘れてくらしていきたい冬でございます。

やあやあ
ハッピーメリークリスマス。