本をひらく
今流しているレコードを立てかけておく、あれを見るのは好き。
私は、読み終わった本を立てかける。
なんとなくそのまんま本棚にしまうのは惜しく
余熱を冷ますような気持ちで立てかけて、その好きな装丁を眺める。
今は、川上弘美『真鶴』
この本、本当にすごい。びっくりする。
大学の卒業制作で私が書きたかったことがすべてと、それ以上のことが書かれている。
(うぬぼれもいいところ)
当時の私は全然、この本に出会っていなくて、もし出会っていたらあんな題材を書こうとしていないかもしれない。
読んで、救われて、終わっていたかもしれない。
昔、先輩の役者さんに「あんたのわかろうとしていることは、もう先人がいくらでも本にしているからそれを読めばいいの」と言われて、心の中で反発していたけれど、『真鶴』を読んで、本当にそうですよねと思った。
遅い。
だけど、別に私は誰よりも先に発明したいわけではなくて、自分の感じていることが身体を通して言語化されるその瞬間や、物事と物事がふいに繋がるその瞬間がみたいだけなのだ。
私にとって「わかる」とはそういうことなのだと思う。
そしてまさにそういう、「「言葉」と「私」を循環させながら考察すること」について書きたくて、卒業制作をした。
だからもしかしたら、あのころ『真鶴』を読まなくて良かったこともあるかもしれない。
そもそも、川上弘美さんの書きながら見ていた景色と、そこで書き起こされた文字から私が覗いた景色は違う。
違うのに共鳴したと錯覚するところに、懐かしい景色や空気や香りを呼び起こされるところに、文字の面白さを感じ続けている。
私が文字を並べたところで何にもならないと思いながらも『真鶴』のことをうっかり話したくなってしまって、次のnoteの連載を読書記にしようかとも思ったのだけど、すぐに思いとどまった。
そもそも、私は読むことが早くなく、コーヒーを飲みながらケーキをちびちびと食べるくらいに(その塩梅も人それぞれだと思うけれど)ちびちびと本を読み進めるのが好きだ。
だから、だいぶストックがたまってからか、超不定期でしか更新できないと思う。
いや、そんなことはいいのだけれど、何よりも
読んでいる本を明かしたり、それについて感じたことを書くというのは、私にとって、もしかすると裸で街中を歩く以上に肝がしびれるものだ。
それはうそかもね、犯罪だしね。
でも、内臓をぱっくりひらかれて、さらされるような心地。
映画ともまた違うのは、きっと本を読んでいるとき、私は圧倒的にひとりになるからだと思う。
映画を観ている時だって、映画館にいて周囲に人がいたってそれはそれなりに一人だし、家で観ようものなら本当に一人だ。
だけどきっと、小説がうんとひとりなのは、その映像が目前にあるのでなく頭の中にあり、その音が鼓膜の外でなく内側にあるからなのだと思う。
だから、本を読んでいる時に目の前を何が通り過ぎても、その映像が遮られることはない。
喫茶店で本を読んでいる時、私は喫茶店にいながら、ひとり冬の真鶴にいたりする。
もしかしたら隣の人はメキシコあたりでさっき出会った人と海辺でお酒を飲もうとしているかもしれない。
さらにいえば、同じ小説の同じ箇所を読んでも、
ある人は10年前の初デートの時を思い出し
ある人はさっき触った鉄製の器のことを思い出すかもしれない。
そういう圧倒的なひとりの時間や感覚を、人にあきらかにするというのはとてもハードルの高いものだ。
し、一切誰にも「さらす」ことなく、そのままにとっておくことが重要なのだと思う。
これも、「私」の守り方の一つなのだろう。
土嚢を積まないと水が侵入してくる箇所もあるし
どれだけ開け放しても硬い土壁を守れる箇所もある。
多分、そんなかんじ。どんなだ。
そのうち、読んだ本にもっと慣れて、自分の身体に均されたときにはその話が痛くもかゆくもなくできる気がする。
でもこの異物感があるからこそ言葉にして残しておきたいなあと思う。
ひそかに書き残しておこう。