菊とギロチン

どうしようもないとき、

言葉じゃどうにも解決のしようがないとき、

どこまで考えてもすれ違いそうなとき、

目の前にいるその人を抱きしめてどうにかしたい、と思うことがある。

それしかない気がしていた。

映画『菊とギロチン』を観た。

強くなりたくて女相撲部屋に駆け込む花菊と、革命を起こそうとするギロチン社の話。

女性の、小さな身体が、薄い皮膚と皮膚が、
私の知らない強さでぶつかり合う。

ぶつかり合うその時の衝撃、相手から伝わる脈動を画面から感じた時

私のこれまで感じていた「抱きしめたい」は、エゴにすぎないと思った。

なにがエゴで、そうでないか

人を本当に思うとはどういうことか、ずっと考えている。

相手を傷つけないようにすることすら、エゴなのかもしれない。

相手を傷つけないようにすることは、自分が傷つきたくないということだから。

肉体的な衝撃を対等に分けあうその人たちを見て、

こんなひとりごちが、ばかばかしくなる。

誰かを本当に思い、守るために、自分の主義を捨てること

それは、もっと大切な、核心の主義を手に入れることなのかもしれない。

言葉は生まれた瞬間から、核心とずれ始める。

言葉にした主義は、次の瞬間には主義じゃない。

刻々と移り変わる自身と、周囲、

全身で触れ合って、時にぶつかり合って、はじめてその瞬間瞬間の主義を手に入れられるのかもしれない。

もっと裸で、人と、物事と、目の前の何かと、ぶつかれるようになりたい。

痛みのない痛みより
傷つかない傷より
賢くない賢さより

肉体で感じて、分かち合いたい。

猪突猛進に、純真に、目の前のことに向き合う主人公の花菊は

何よりも自分の弱さに対して素直で

そしてその弱さに向き合い切れた時

自分の弱さに甘えない、本当の強さに向かって行った。

情けない真正面の顔も、勇ましいその背中も

私にはとても眩しく、突き刺さり、
こうなりたいと思った。

3時間もの時間は、脈々と流れ、どんな絵も似たものはなく、似た時間はなく、常に必要にせまられて切り取られた時間だった。

登場人物のみな、一人一人が、何かや誰かに立ち向かっていて、それぞれのどこかを見据えているが

みな、敵ではない。

そんな人たちの清く潔い姿を、浴び続けることが出来た、気持ち良い3時間だった。

変わりたいと、思った。