うみのような



うみのようないちにちだった。きのう。

大きな波が打ち寄せたり
さざなみにくすぐったくなったり

かんじょうがふるえると
からだがふるえることがわかって

じぶんのからだも波打っていた。

「うみと人は似ている」とさいきん
ことばにしたばかり。



生きることを覚悟したんだな、と
おもった。

それは
人と生きること、だった。

誰かと何かを共有しようとおもったとき
立っている地平がひとつ変わった気がした。

生きることについて
なんどもかんがえてきた。

ちいちゃなわたしなりにかんがえていた。

だけどいま立った「生きる」は
わたしにとってとてもあらたなもので
しらないものだとおもった。

そうしなくても生きていけるもの、
例えばデザートを食べることとか。

いまわたしが立った「生きる」は
「そうしなくても生きていけるもの」だけれど

それはデザートではなくて

中華かフレンチか悩めるときの晩ご飯でもなくて

三日ぶりの食事でもなくて

あわいを食べるような
そんなかんじで。

そうしなくても生きていけるけれど
いちばん近づきたかった場所のような気がしていて

そうして生きていきたいと
喉から手が出るほど祈ったことのような気がしていて

生きている間に手を伸ばすこと、
ないとおもってた。



いろいろな表情のうみを見た日だった。

わたしのからだに共鳴して波たつうみも
うみのゆらめきに共鳴して波たつわたしも
見た。

ことばあそびみたいに
意味じゃなくたって
くすぐることばに
ふふふと誰かと笑えたらそれがいいと

いちにちの終わりはそこへいきついていた
そんないちにちだった。