まちあかり



きのう、
たいせつにしはじめていた
びんを割った。

わたしがいつものように
横着をしたばかりに、割った。

びんのくちのところが
四分の一くらいかけて
全体にひびいった。

誕生日だというのに
わたしはわたしをぶっつぶしたくなった。

ほら、また
わかってたのにこういうことをやる
やりそうだなあ、ってわかってたじゃん一秒前

わかってたのに何年も間違える。

そうやってひとり
破片をあつめて
ごみばこへむかい

ふとふりかえり
割れたそのびんをみると

とてもうつくしかった。

なんともいえず、うつくしかった。

そりゃあ、こんな状態では売ることはできないから
買うことはできないだろうけれど

もしも街で
割れる前のびんと
この割れたびんが並んでいたら

わたしは割れたびんのほうを
写真にとるなあと思った。

そうやって、一瞬で
くだけかけた心は回復した。



ことばにするとなんでも美しくみえるようにできてしまって
わたしって嫌だなと思うこともある。

こういうときにいつも思い出すのは
この雑記にも前に書いたかもしれないけれど

近所の定食屋に行ったときの話。

ああ、秋ですし
さんま定食〜と浮かれて入った。

それで、待っていたら
そのお店は家族三世代くらいで営んでいて

奥さんが店内を駆け回っていて
おそらくその旦那さんが台所にいて

奥さんはおばあちゃんの食事を介助しながら
赤ちゃんに離乳食をあげていた。

お客はわたし一人で
運んでもらったさんま定食をたべながら

なんというかわたしは
正直に書くと
生活を食べているような気持ちになった。

正確に書くと
わたしが食べているもので
この家族が生活をしているということなのだけど。

それでのどを通りにくくなった定食をさいご
味噌汁で流し込むとき

ああ、わたし
この味噌汁の上澄みをすすっているだけみたいだな
と、なんとなくおもった。

だからどうだといいたいのではなくて
そういうことを
ことあるごとに
うつくしくなろうとしすぎたときに
おもいだすのだ。

そうしなくたって
そんな上澄みを吸う余裕なんて
一ミリもなく

毎日せっせと生きているのだけれど。

それでも、それだからせめて

わたしの見たいものや
過ごしたい快い場所は
じぶんでつくれたらいいなと
思っているだけなのだと思う。