リズムの海を歩く

高校時代の自分の身体性をとりもどしている感覚がとてもつよい。

毎日すべての授業がおわり放課後になると、

そのまま机に向かい、その日やるべき宿題を日が暮れるまでやって

そのままの速度で40分以上ある道のりを歩いて帰る。

その間、わたしのなかにはずっとおなじ速度のリズムが流れていて

たぶんBPM125くらい、

ほかのだれかがわたしのリズムに、視野に、介入することはなくて

その日やることがおわるまで
そのリズムを刻み続け、その速度で歩き続けている感覚だった。

リズムがゆるやかになるのは

帰りしなに寄るスーパーマーケット。

そこで、夕飯の食材を選びはじめると

川が合流するみたいに

あたらしいリズムがはじまる。

BPMは20くらい。

そうしてゆっくり、夕景や夜景をながめたり、きょうのことをおもったり
かおりをかんじながら歩いて

家に帰り着く。



BPM125も
BPM20も

どちらもきっとわたしの、わたしだけの、リズム

それをスイッチさせるすべももっていたし

そのリズムを自然にわきおこしていた。

あらゆることがはかどったり

とてつもない集中力でひとつひとつを片付けてゆける

余計なこと、余計な不安はなく

やることをやる、ということがシンプルにできる。

そういう、あのとき自然にできていた感覚を

ここひと月ほど、取り戻せている感覚があることに、今日、気づいた。

それはわたしにとってものすごくうれしいことで

ここちよいことで

こころとからだと脳みそが
いっしょになって汗をかけるような感覚で

1日を終えようとよりみちした喫茶店で店員さんと話したとき

からりとした笑顔になれてうれしかった。

からりと生きられる感じがした。

からりと生きる人に心底憧れる。

自分に対しても、他人に対しても過不足なく

そういう人に憧れる。

自分のリズムを刻むことが

他人のリズムを聴いたり触れることになって

乱されたり、乱したりすることなく

ときに意図せずおなじタイミングで手を鳴らし

からりとした音が響き渡るだろうか。