希望は螺旋に

守りたい信念と

生きてゆくことの

どちらが必要か、ということを
ひたすらにかんがえていた。

マーティンスコセッシ監督の『沈黙』をみたのがはじまりで

このところ触れないようにして生きていた
ある、何かに、触れてしまったからだ。

守りたい信念も、生きてゆくことも

どちらも必要だ。

けれど、信念に殺されるまえに
生きることを選ぶこともある。

生きていかなきゃいけない、という
信念もある。

信念、というのも、なんだかちがう。

生きていかなければ

生きて、生きていかなければ、

できないことがいくつも、ある。

守りたいものを守るためには
何かを諦めたり捨てなければならないのか

ずっとずっと考え、
諦めという絶望のような希望のようなものを

おもいだしていた。

「語り得ないものについては沈黙しなくてはならない」という
ウィトゲンシュタインの言葉がぐるぐる回っていた。

無理を越えようとすることは「ロマン」だ
と、切り捨てられたことを
おもいだしていた。

だけど、「ロマンチストで何が悪い」と
ふたたびおもわせてくれたのも映画だった。

『ラ・ラ・ランド』。

夢と現実。
守りたいものと、生きてゆくことと。

天秤にかけたり、それぞれを支えにしたりして

現実も夢も自らの手で磨いてゆく。

ロマンチストで何が悪い。

現実を越えて越えて越えてゆこうとする姿が
そう思わせてくれた。

選択して生きてゆくしかない未来
手放してしまった過去さえも
ゼロにはならないという希望があった。

何かを得るためには
何かを捨てなければならない、時がある

けれど必要なものはいつかまた
必ずこの手に帰ってくる

そんな気がした。

していた。

だけど。

生きていくために守らなければならない信念



抗いきれない大きな見えない力があることを知る。

二兎社の舞台『ザ・空気』を観て。

そしてまた『沈黙』にみた、絶望を思い出す。

問題は全て違うけれど
わたしの中では重なるところがある。

守らなければならない信念と
生きてゆくこと

小さな世界では守れても
大きくて狭い世間では守れないこと

またそれらがぐるぐるまわって
ループしはじめる。

それでもやっぱり

息を吸えるだけのわずかな余地は
必ず自分の手で守らなければならないと

いま、おもっている。