塊と魂

何年か前、わたしの頭の中には「マトリョーシカ構造」と呼ぶ思考回路があった。

私を見ている私を見ている私を見ている私を見ている私を見ている私を見ている私…

というのが無限に働く思考で

ちょうどマトリョーシカみたいに、「私」の外にどんどん「私」がいる。

名前は勝手につけた。

マトリョーシカの場合、開けると中に小さなマトリョーシカがどんどん出てくるのだけど

これとは逆に、外へと増えて、どんどん大きくなっていく。

そして、どんどん、「私」本体からはなれてゆく。

そんな回路が止まらない時期があった。

要するには、「私」は「私」がわからなくて

「私」を疑う「私」を作らなくては、信じることができないのだけど

それはどうしたって無限に連なってしまって、結局信じられないし、そこに真実はなかった。



昨日、
糸あやつり人形劇『ゴーレム』を観て、そんな思考を丸ごと思い出した。

『悪魔を汚せ』の演出をなさっていた、寺十吾さんが出演していて

寺十さん演じる男が、バラバラになってゆく様を見た。

マトリョーシカ構造の思考のとき、いちばんこわいのは

肉体から、「私」がどんどん遠のいていくことだ。

「私」とは

思考なのか
心なのか
脳みそなのか
魂なのか

それはわからないけど

その全てと肉体をつなぐ糸みたいなものが
絡まったり、千切れたりして
どんどんバラバラになってゆく。

肉体というケースの中にいないと、「私」は生きられないのに。

人形と人間が同じにならび、
そこで生き
紡ぎ、絡まるのを見て
本当の「生」についてかんがえていた。

その様は混沌としているのに、あまりにも明快に目に見えて
だから鮮明に、わたしの回路が蘇った。

終演後に寺十さんや、一緒に観に行った祁答院さん、秋月さんと言葉を交わせたわたしは

マトリョーシカ構造のなかにはいなくって

きちんと「相手」をみつめ、
生きられる幸せをおもった。


『ゴーレム』
6/12まで、KAATにて。