かたちのかたち
こどものころ、
お湯と水を交互に少しずつ入れてぬるま湯をつくるとき、それをしましまと呼んでいました。
お湯と水が少しずつ層になって重なっていくイメージだったんだとおもいます。
たぶんそんな時代からはじまって、
おもったことやかんじたこと、みたものが
同時に、図形や立体型になってあたまにうかぶようになりました。
何かと何かの距離感や、温度差、質感、位置関係
そういう感覚が一気にかたちになって、イメージとしてあらわれます。
とっても説明しにくいのですが、
たとえば何かの舞台を見たときに球体がバン!と浮かんだりするわけです。
それは登場人物の関係性だったり、
脚本の構造だったり、
そこに流れる時間や空間だったり、
見ている観客から感じるものだったり、
全部が重なって生まれるイメージで。
そこにある、いろんな要素に一貫した感覚があると、よりはっきりとひとつの図形がうかびます。
そしてそれを感じるものが、わたしはすごくすきみたいです。
ほんとうにこころふるえるものって、そういう、言い得ない重なりがある気がしていて
実は奇跡的に出来上がっている空間、時間、人・間、があるってこと、
みのがさないように、みつめていたいです。
抽象論でしかないんだけど、
抽象が具体的に目に見えている場合もあって、
だからそれを書き出す日々です。
私のための雑記です。
頭の中のスケッチです。
お湯と水を交互に少しずつ入れてぬるま湯をつくるとき、それをしましまと呼んでいました。
お湯と水が少しずつ層になって重なっていくイメージだったんだとおもいます。
たぶんそんな時代からはじまって、
おもったことやかんじたこと、みたものが
同時に、図形や立体型になってあたまにうかぶようになりました。
何かと何かの距離感や、温度差、質感、位置関係
そういう感覚が一気にかたちになって、イメージとしてあらわれます。
とっても説明しにくいのですが、
たとえば何かの舞台を見たときに球体がバン!と浮かんだりするわけです。
それは登場人物の関係性だったり、
脚本の構造だったり、
そこに流れる時間や空間だったり、
見ている観客から感じるものだったり、
全部が重なって生まれるイメージで。
そこにある、いろんな要素に一貫した感覚があると、よりはっきりとひとつの図形がうかびます。
そしてそれを感じるものが、わたしはすごくすきみたいです。
ほんとうにこころふるえるものって、そういう、言い得ない重なりがある気がしていて
実は奇跡的に出来上がっている空間、時間、人・間、があるってこと、
みのがさないように、みつめていたいです。
抽象論でしかないんだけど、
抽象が具体的に目に見えている場合もあって、
だからそれを書き出す日々です。
私のための雑記です。
頭の中のスケッチです。