たい、を、煮る



目覚まし時計の音に対して、心の底から「何の用だろう?」と思う。

ああ、起きるってことか、と気がつくまで時間がかかる。

気がつく前に、寝ぼけている時特有の無意識が勝つと、「わたしは今、寝ているべきなので用はない」と完全に信じて無視する。
あぶない。

不慣れなことをしたあとで、異様に疲れていたけれど、いつもの労働をしたらなぜか疲れが癒えた。

自分の気の済むところまで仕込みができてそこそこに満足。

疲れている時にいらいらするのは、本来寝ているべきなのに起きていたり、その上活動していることにそれだけで身体が理不尽を感じているからなんだと、この頃は思う。 

だからいらいらしたときは、素直に寝るか、理不尽に対して抗議している身体を、あらそれは不憫だねとへらへら笑ってやるかの、どっちかがいい気がする。

人間は、自身の中だけでも都合の異なるあれこれが同居しているのに、その上自分以外の、気候だとか状況だとか人だとか異なる都合と生きようとしているのだから、それもみんな涼しい顔でやっているのだから、曲芸師みたいなもんだと思う。

私もなんとか曲芸をしていきたいし、無理な時は寝たい。


この数年は、12月は1年のボーナスタイムみたいに過ごしていることが多かったけれど、今年はもうひと頑張り月間となっており、師走の名に恥じない師走である。

入浴剤のアドベントカレンダーを自作して毎日湯船に浸かるよう仕向けたり、デザートを食べたり、一年分の自分への労いの大きな買い物をしたりと、かなりの頻度で疲れを癒すあれこれをしているが、それでも疲れは、ある。

疲れってものは、床に落ちてる髪の毛くらい、昨日とったのにもうあるものなんだと思い、自分が思っているより高頻度ですくいあげることにする。


道端ですれ違った自転車の女の人に、訳もなく微笑みかけられて妙に元気が出た。

多分、訳もなくってところがいいんだと思う。

山田太一さんもそんなことを言っていたのを思い出したので、わたしも機会を見てはすれ違う人に訳もなくへらへらと微笑みかけてみようと思う。

みんなお疲れの師走でしょうから、互いに訳は知らずともほんのりねぎらいあいましょう。


そんなときこそ、たいを煮る