春が立ったので


いつもより日付が1日早い立春。

昨日は節分で、我が友、関森絵美ちゃんにレッスンと振付をしてもらって10年ぶりくらいにダンスというものをしてきた。

昔々はダンスを習っていたのだけれど、それも14歳の頃くらいまでで、そのあとは時々仕事で踊る機会に遭遇すると必死で練習して踊る、という具合だった。

ダンスが染みついているような人間ではないので、機会や振付がなくては自由に踊れるわけでもなく、だけどいつも人が踊っているのを見てはうずうずしたり、階段の踊り場をみると急に踊りたい衝動に襲われたりしていた(広いから。なんで踊り場って踊り場っていうんだろう)。

最近は、踊ることに限らず、なんだか体を動かしたくてたまらず、道で急に走り出したり、家で急に激しく動いたりしており、先日ついに「私って実はエネルギーが有り余っているのでは?」という発見と共に目が覚めた。

そんなおりに、ダンスを日常的に踊っている関森絵美プロとご飯を食べ、私は踊りたいのだと伝えたところ、この機会が誕生した。


出会って10年も経つのにこんな機会は初めてで、友達である関森絵美プロが、ダンスを私に教えてくれる様は、全く知らない頼もしい師の顔であった。

出会って10年経っても、知らない顔がある。同じ人間二人の関係性の中にも、様々な関係性があり、その新たな関係性に出会った感じがした。

大変に頼もしく、同時にものすごく素直にできないことをやってみたい気持ちが湧き上がった。

久々にするダンスは、身体が躍動するのが嬉しく、嬉しいあまりにそんな自分が恥ずかしく、小学2年生の時に照れのあまりに怒りながら初めて近所のカルチャースクールのヒップホップ講座に連れて行かれたときを思い出した。

こんな嬉し恥ずかしい気持ちに、まだなるんだ、と思った。

渡鬼の大吉さんが、定年すぎてから初めて包丁を握ったときの嬉し恥ずかしさを見ていいなあと思っていたのだが、それにかなり近いものを感じた。また渡鬼の話をしている。

4時間踊り通して、何年も感じていなかったほどに疲労し、その後すぐに食べたカレーライスはまるで水を飲むようにするすると胃に流れ落ちてきた。

こんなにもご飯は美味しいのか、と思った。

疲れ切った時、そこから新しいエネルギーが湧いてくることを知った。


ところで突然の発表なのだけれど、私は3年前から、演劇をしていない時は飲食店の厨房で、これまた師につきながらささやかに料理の仕事をしている。

この辺りの経緯については、そのうちどこかで書いてみたいなと思っているのだけれど、昨日散々踊って、新鮮な踊る自分のチャンネルにぎゅっとチューニングを合わせていたので、今日料理の仕事に行く時に、いつもよりものすごく遠くの世界から出勤する感じがした。

こういうぐいっと移動する感覚が、結構好きだなと思う。

最近は、料理の仕事と、演劇(なかでも演出をしたり出演をしたり書いたりとか)と、ちぎり絵で紙芝居を作ったりとか、普通に実家のことを考えたりとか、自分の家の家事をしたりとか…いろいろな時間を行き来しており、それはきっとあらゆる人がその種類や幅はそれぞれだろうけれど、多かれ少なかれしていることだと思うのだけど、私もそういう生活をしている。

昔、「なんでもできるようになりたいの?」と聞かれて困ったことがあるのだけど、今は、そうではないなとはっきり思う。

むしろ、どこにいても何をしていても、一つのことをしているような感覚の方が近く、当然一つ一つ別のことをしているのだけど、私はただ、生活と共に何かをしており、生活の中で何かをしている。

生活の中で、自分が生きていることについてものすごく壮大に考えたり、昨日のささやかな失敗について考えたり、明日なんて謝ろうと考えたり、そういうこととともに料理をしたり、ちぎり絵をしたり、演劇をしたり、誰かと関わったりしている。

私は割と昔から、自分が生きていることや、同じように誰かが生きていることに興味があって、そういうことから片手を離さずに、いろんなことができたらいいなと思っている。

生きていることは、年々ますます険しく面白い。

きっとこれからもそんな風にして、生きていることの中で何かをし、それを誰かに見てもらう時には、ちゃんと誰かが見て面白いように、一生懸命作りたいと思う。

それは、見てくれる人の生きていることを目掛けたいからだと思う。



なんて、それってどういうことなんだろうなとずっと考えながら、そんな生活をしています。

これがベストな言語なのだろうか、もう少し言葉にできるようになるといいなと思いつつ、今日のところは嬉し恥ずかしのダンスでも見てってくださいませ。