行くとこ来るとこ




年始の私


門松がなぜ門松というのかを、腕を門にしながら全身で表現して教えているお母さんとすれ違ってよかった。

私はというと、時差ぼけのサンタクロースというかんじで、袋いっぱいにカーテンを詰め込みかついでコインランドリーへ向かった。

洗濯機があっても、大きいもの、乾かすのが大変なものはコインランドリーで一気に洗い乾かす。贅沢だとはおもいつつも、この爽快感には代え難い。

ついでに窓を全部洗って、劣化したカーテンフックも取り替えて、これまた爽快。

家や生活の中には、なんとかなってるけど実はちょっと不快、みたいなことが山積しており、そういうものをひとつずつ解消することは、実はかなり心を清らかにしてくれるなと思う。

というか、なにか重大な不安を抱えているような気がしている時、こういう僅かで些細な不快を解消すると、もしかするとこれが不快なだけだったのかもしれないと思えてくることすらあるし、それは半分正解なのだと思う。

そんな小掃除大掃除をしながら、ダイニングテーブルには数独、ソファには編み物の道具を置いて、行き来しながらちょっとずつ進める。

2年前から編み始めついに今年も編み終わらなかったマフラーを横目に、なぜか今月編み始めた手袋を完成させる。

数独は、懸賞ハガキ2枚分を解き終わり、ひと段落した。

よくよく考えれば、この数独という趣味は、祖父から母、そして私へと代々に受け継がれたきたものだなと思う。

これからもこの世の数独は私が解いてみせる、と、無駄な誓いを立てつつ、しかしこんなふうに脈々と受け継がれながらも生活に馴染んでしまったもの(たとえば味の好みやいいと思う感覚なんかも含めて)は実は結構大きなものなのだとも思う。 

大袈裟なことを言えば、私は簡単じゃなく繋がれた人生の先でここに立っていて、だけどそれをさも凡庸なことのように、当たり前のように軽々しく過ごすことに、人生の趣というか、人間のいじらしさというか、愛らしさ、ともすれば切なるいのりがあるなあと思うのであった。



畑からの帰り道、歳末の静けさの中、葉の枯れ落ちてよく見渡せるようになった木の間から広くて暗い空を見上げながら、人生や人の世のような広大なものについて、漠然と思いをはせる。

そういう広大さに目を向けてあらゆることがとても間抜けなことに思えてきたり、少し先の見通しの立たない未来について考えて混迷を極めてみたり、目の前の、たとえばカーテンを洗うみたいな実務を完了することで、これを積み重ねるしかないのだよなと思えてみたり、そんなことを行き来しながら今後とも生きていくのだろうなと思った。

しかしそのどれもが、それぞれにばかにできない現実なのだとも思う。


電車に乗り、このところ読んでいた、津村記久子さんの『この世にたやすい仕事はない』 を読み切った。

かなりいいな、と思っていたけれど、読み終えたらかなりよかった。

この世にたやすい仕事はないし、この世にたやすい人生を生きる人はないのだと思う。

たやすくなさに折れながらも、たやすくなさに鼓舞され、誰かがそうして生きていてくれることがとてつもなく嬉しいだけで、生きていてよかったなと思ったりもする。



今年も一年、ありがとうございました。

思ったよりも、形にして見ていただくことができて、よかったです。

来る年も、こつこつと時々の地面を踏みながら、地表に出てきたものをお渡しできたらいいなと思っていますので、そのときはほうほうと見てくださったら幸いです。

それぞれの日々、お疲れ様でした。

皆々様の一年の労を、こころからねぎらって、静かに年の瀬を過ごすことにいたします。