一心同体だった

 
山内マリコ『一心同体だった』を読んでいる。 

どうしようもなく面白く、最近はこの本に書かれていることが生活の傍に続いていることがすごく力強い。 

短篇集で、一章は1990年に10歳である主人公の目線で語られる。 

二章、三章…と続いていくが、前の章の主人公の友人が、バトンタッチする形で次の章の主人公になる。

そして、年代も、章が移るにつれて進んでいくが、語り手である主人公は皆、1980年生まれの女性たちである。 

私よりひと周り上の女性たちの目線で語られるそれらの時代は、概ね私も見てきた時代で、 

それ流行ったよねとか、そんなムードだったよねと、時代の香りを鮮明に思い出す。 

そしてその中に生きる、流動的なものも、普遍的なものも含めた、女友達との日々の機微もまた、とても克明に描かれている。 

2000年のムードも、10歳の時の悩みも、1ミリも覚えていなかったのに、描かれるものを読むだけで、肌で、思考で、ありありと蘇ってきた。 

時代と年代の変遷を通して描かれていたのは、 
女性自身の意思だけではどうにもならなかった、「女性が何を望むことを、他者から望まれてきたか」ということだった。 

そしてそれは反転して、「男性が何を望むことを、他者から望まれてきたか」ということでもあり 

さらに言えば、「時代が何を望むことを、何者からか望まれてきたか」ということでもあるような気がする。 



私の長い付き合いの友人である絵美ちゃんとは定期的に雑談の会をする。 

先日の会で、徐に「人生はどうですか?」と聞いてみた。 

すると絵美ちゃんは、「面白いね。楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、しんどいこともちゃんとあって、面白い」みたいなこと(正しくは忘れた)を言っていた。 

それを聞いて、ほんとそうだなぁ、と思った。 

それに、それら全部が、「他者から望むことを望まれているもの」のためでなく、「わたしの望むもの」のための機微であるようになってきたことが 
最近の人生をかなり快適に、納得のいくものにしてるんだなと思った。 

「望むことを望まれているもの」を、別に本当は欲しくもないのに望んだり、しかも手に入らなくて悔しがらなきゃならなかったりするのは 
気付いてないけど理不尽で不本意だったんだなあ、と思った。 

100パーセント自分の意思であるなんてことはあり得ないけど、それでも前に比べりゃ俄然マシ。俄然ムシできることが増えた。 

「やっぱりそれ、私は別に欲しくないんだよな」と思えるようになってきた。 

だから悲しいことも別に、私のための悲しさなので、納得している。潔い悲しさである。 

しかしそれだって当然、私の意思だけでそうできたことではない。

時代や出会う人、環境があって、今私はそう思える場所にいるだけのことだ。

そんな話をしながら、絵美ちゃんとタイ料理をもりもり食べ、35歳になったときはまた面白かったよ、と教えてもらった。 

絵美ちゃんはどんどん素敵になる。 



本の中の、ひとりひとりの1980年生まれの女性が、その時代に、その年齢で生きていくリレーを読んでいくと 

今読んでいる章に描かれているその人のことを思いながらも 

ずっと前の章の、同い年のあの子は、今元気にしてるだろうかという気持ちが、代わる代わるに湧いてくる。 

どうあれそれなりに健やかに生きていてほしいと、虚構の中の人なのに、本気で思ってしまう。 


そんなことを考えていたら、昨晩、夢に、中学時代の友人が31歳になった姿で出てきて 
「今のほうが楽しいよ」と言っていた。 
通学路の川辺で。 
嬉しくなって、ハグしてしまった。 

夢だし、私の都合による夢だし、なんのこたないのだけど、やっぱりそうであってほしいことにはちがいないみたいなのだ。 

「今のほうが」じゃなくたっていいんだと思う 
だって、生きてると本当、いろんなタイミングがあるから 

「今」こんなこと考えちゃってるのは、「今」こんな本読んじゃってる私の勝手だから 

「今」はソーバッドかもしれないし 

全然よくない時とか全然あるけど、別にあたりまえだから、大丈夫だから。 

でも、 
あらゆるタイミングを経て、何度でも、今が一番いいと思える時が来ていてほしい。 

そのために今、とりあえず生きててほしい。 

なんとか今を重ねて、息が吸える場所に辿り着き続けていて欲しい。 

これまでどんな形でも友だちであった人たちに 
そんなことを思ってしまう、この頃。 

だってあの頃、そのひと時が、 
その後どうなっていたとしてもやっぱりかけがえなかったと思う、今なんだもん。