そういうふうにできている
吉祥寺に行くと、偶然コジコジのコラボカフェがやっていた。
以前に下北沢でやっていたときは、インターネットで情報を知ってはいたのだけど、なんやかんやで行かなかった。
偶然出会うと、せっかくだし、という気持ちになるもので、何よりもうそこにあるのだし行ってみることにした。
コジコジコラボのメニューがいろいろあって、デザートやフード、ドリンクにコジコジの顔があらゆる形でのっている。
夕飯どきで、これはもうコジコジナポリタンでも食べちゃおうかなと思ったけれど、
メルヘンの国にいても、家の冷蔵庫で待っている期限切れ間近の栃尾の油揚げの存在を忘れることはできず、
コジコジのクッキーののったチョコレートケーキを頼んだ。
ちょうど今、さくらももこのエッセイを読んでいる。
『そういうふうにできている』というエッセイは、さくらさんがまだ二十代の頃に書かれた、出産にまつわる日々の話で
私はこれを読みながら、ただただ感嘆の音を漏らし続けている。
なにか根源的な生命の歓びのようなものが、春の芽吹きのように蠢くのを感じ、私の意思に関わらず、わらわらと土から虫たちが姿を現すときみたいに涙が溢れてきたりもする。
大学生の頃、友人に『コジコジ』のマンガを薦められるまで、さくらももこ作品やさくらももこを特別意識したことはなかった。
けれど、子どもの頃、日曜日に民放で流れる国民的な『ちびまる子ちゃん』はいち国民としていつも見ていて、普通に大好きだった。
大人になってからもたびたび思い出すのは
まる子がおじいちゃんにおねだりして、おじいちゃんがいいよいいよと何でも買ってあげる、あのやりとりのことだった。
あのやりとりを見ると、子どもながらに、どうにも胸が詰まった。
おじいちゃんとまる子、どちらに感情移入しているのかわからないけれど
なんとも言えないぎゅっとした後ろめたさと、ほわっと解かれてしまうやさしいありがたさ、両方から襲われた。
この感情の記憶はなんとも鮮烈で、今も度々思い出しては同じ気持ちになる。
考えてみれば、私って人間自体、だいたい
この世にある、あらゆる無条件の温かなものに対する
なんとも言えないぎゅっとした後ろめたさと、ほわっと解かれてしまうやさしいありがたさに板挟みに襲われ、
その両側面から支えられるように立っているようなもんだ。
人という字は人と人が支え合って〜みたいな感じで
後ろめたさとやさしいありがたさが支え合って、人の形を保っているような人間だ。 じゃじゃーん。
子どもの頃、まるちゃんを見ていた頃は、こんなふうに言葉にしては思わなかったけれど
きっと心のどこかで、そんなところに共鳴して、毎度何故だかわからない涙を流しながら日曜の夕飯を待っていたんだと思う。
『そういうふうにできている』の巻末のビートたけしさんとさくらももこさんの対談には、さくらさんの実際のおじいさんの話が書かれていた。
これを読むとまた、『ちびまる子ちゃん』に描かれるおじいちゃんに何故こんな気持ちになるのか、別の角度から納得できるような気もした。
チョコレートケーキを食べ終えて、エッセイも共に読み終わった。
あまりにもあまりにもすぎるのでカバーを外して読んで、泣くのも抑えていた。
無理が祟って頭痛に襲われた帰り道。
なんとか余力で、栃尾の油揚げの命を救う。