憧れを手にする
装丁が気に入って買った本
『散歩が仕事』
半年かけて読み終わった。
こんな読みやすい本、気合を入れればものの一時間半で読み終わるようなものかも知れないけれど
気合が入らないのがこの本のいいところなので
そのよさにもたれていたら、半年だった。
たいてい同時に6〜7冊の本を読んでる。
何かに追われて読まなければならない本や、一気に読みたい本に追いやられながらも
優先順位の最下位には常に君臨し続け
かばんの隅には居座り続ける
そういう本だった。
ずっと読み終わらないことに焦燥感も罪悪感もなかった。
そしてこの半年間、ずっと、この顔も知らないけれどなんとなく様子を知っているおじいさんが生活の片隅に存在していた。
それはまったくたいしたことでなく
近所のなんだか可愛い元気な花が咲いているあの家はおじいさんが住んでるらしい、くらいのことだけれど
そのくらいのことがあるってのが、よかった。
散歩が仕事なら、こういう本を最優先に読み終えるのかもしれないとも思ったけれど
果たして散歩ってそういう切羽詰まったものだっけという感じもして
常に優先順位の最下位には君臨し続けるということが、散歩が仕事、のバランス感覚なのかもしれないなとも思った。
ところで作者は1991年に天寿を全うされている。
わたしは1992年生まれなので、同じ時を生きたことはないことになる。
すれちがいである。
それでも、作者が浮かれていた春の神保町は、肌で想像できるし、共に浮き足立ち憧れることもできるから
季節と街と言葉の、孕んで孵す容量はすごいなあとおもう。
と、憧れの春の到来に喜び溢れてたのは、2週間前の桜のころの話。
タイムリーな私はというと、昨夜帰宅したら、冷蔵庫に入れずにいたポトフが天に召されていた。
うむ、天に召されるならいいな、沼に落ちていたって感じ。
不貞腐れたので、ジャンクなタイヌードルを食べて不貞寝した。
季節が巡るということは、冷蔵庫に入れずにいた食べ物が腐る季節がまたやってくるということだった。
喜びだけ享受できるはずなどないのだよ。
実はそんな季節の予感はしていたけど、実感するまで待つ癖が私にはあるらしい。
とくと実感。
これぞ春。
元気だったころのポトフ。