一線


休演日。引き続きのタイ料理祭。
ラープガイとレッドカレー。



 パルコ・プロデュース2022
『桜文』
無事に幕が開きました。

お越し下さっているみなさまへ、ありがとうございんす。
(廓言葉でございんす)

面白く観ていただけていることを知って、ほっとしました。

ご飯を人に作る時もそうですが、一生懸命作るけれど
自分がただ一生懸命作っただけではたりなくて

万人にとっておいしいことはむずかしいとわかりながらも
できればおいしく食べてもらいたいと願ってしまうことは変わりません。

だからこそやっぱりかわらず、邪念を払い丹念に一生懸命つくるのみなのですが
受け取っていただいて感謝の気持ちでいっぱいです。


今回、各所にさまざまなプロフェッショナルの方が入ってくださっているのですが
所作指導には花柳輔蔵先生が入ってくださっていました。

稽古場でお芝居の所作を見てくださっている他に
作品の稽古に入る前の所作稽古をつけてくださいました。

そこでは、浴衣の着方からたたみ方、歩き方などという基本から丁寧に教えてくださったのですが

初日が開けてふと、その時に教えてくださった、挨拶の仕方のお話を思い出しました。

正座をして、扇を自分の前に置いて指先をそろえて、丹田からゆっくり、最後に頭をおろしてお辞儀をするそうなのですが(まちがっていたらごめんなさい)

この、扇を自分の前に置くということには
「相手と自分との間に一線を画する」という意味があるそうなんですね。

全く違った他者との間に、きちんと一線を画することで
全く違った他者を尊重します、敬意を表します、ということらしいのです。

これを聞いて、はあ、なんと良いのだろうと深く感銘を受けたことを
初日のカーテンコールの時にわあと思い出しました。

このお辞儀に「かくありたい」が詰まっているといいますか

お辞儀をするたび、そういう初心を思い出して

分をわきまえながら、自分の分を果たせたら良いなと思いました。


しかし、この前まで読んでいた河合隼雄の『大人の友情』の一節で「境界を超える友情」というのがありまして

ここでは、おそらくその「一線」や「分」を超えたり溢れることで感じられる友情について書かれていたんですね。

これもまた一理あるなあと
『桜文』のなかに描かれる運命と並走しながら思ったりもしました。

超えたり溢れたりできるのも、たしかにその「一線」を認識してこそだしなあ、みたいなこととか。

しきたりがたくさんの、大門で外界から閉鎖された廓の一線を、超えて、溢れさせる出会いが、『桜文』にはあります。

ぜひおこしくださいませ。ませ。


【15日はアフタートークに出演します】
詳細はこちら
https://stage.parco.jp/program/sakurafumi/10234