手合わせ

刻む練習にはじまる、料理の練習は続いている。

何をやってもそうだけど、真剣に向き合ってみると、ぼんやりやっていた時よりも出来ないことがよくわかってくる。

それで、わたしは以前よりも、「出来ないこと」が増えた。

そんななかで、ご飯を食べていた。

白いご飯にほっけの塩焼き、万願寺の炒めたのに、お味噌汁。

手を合わせて、まずはお味噌汁に箸を潜らせ、ひと口飲む。

それからほっけの骨をぺらりととりのぞいて、ざっくりほっくり身をとり、ご飯の上に運びつつ食べる。

そしてご飯を一口。お味噌汁で口を潤す。

つづいて万願寺を一口。その辛さにまたごはんを一口。

こうして食べ進めていくと、最後の一口はお味噌汁でおわり、お椀には米粒ひとつなく
お皿のうえに残ったのはほっけのおおきな骨ひとかたまりだけだった。 

わたしったら、なんて食べることが出来るんだろう!

つくることの「出来なさ」と向き合っているおかげで
食べることの「出来る」具合に心底感動してしまった。

なんというかそれは、マナーがどうとか、箸づかいがどうとかいうことでもなく

ただ食事のことをとても好きなわたしが、食事に向かうことの「出来る」具合を再発見したような感覚で

ちょっと、生きて行くことの自信にさえなった。

これだけ真面目に食事ができれば、そうそう生きる気力を見失わないだろう。

赤子でもないけど、食べることが出来るのを、こんなにほめたって、たまにはいいじゃないの。

たまたま続いている日々を、刻々刻むためのひとくちひとくちを、大いにほめたっていいじゃないの。