接写

 


「筆舌に尽くしがたい、というようなことをプロが言うな。なんとしても文章を書け」という言葉を残した開高健の文章を読んでいると

言葉でスケッチすることの執念を感じて、それは開高健にしか言えない言葉だなと思う。

開高健がスケッチする食べものや風景は、克明すぎて、鮮烈すぎて、生々しいほどに感じる。

肉に触れるように、触れた時の音がグチュっと鳴るほどに、感じられる。

開高健の筆を通した言葉を読んだ時の、その鮮明さはきっと、私の手が実物に触れた時より強い。

私は大学生の頃、「五感を立ち起こすような文章を書きたい」と思っていた。

言葉がジップファイルのようになっていて、解凍すると、読み手の記憶の中にある五感がぶあっと立ち上がるような、そういうことを目指していた。

それは自分の言葉が、異なる他人の異なる感覚を引き起こすというものだった。

でも、開高健の言葉によって沸き立つ五感は、自分の記憶や経験のどこにもない。

なのに、その場所に行って、そのものに触れて、そのものを口に運び、それをさらに顕微鏡で100倍にして覗いた時のような、五感の感じられ方だと思う。

解像度の高い写真や映像が今や世の中にはたくさんあって、それを見るたびに、実物はこのようではないと思っていた。

何かを思い出す時の、記憶の中の絵は、目の前で見ている絵よりさらに粗くて彩度が低い。

私は、その粗く彩度が低い方にこそ現実味があると、これまでずっと思ってきて、その現実味に重きを置いていた。

だけどそこで差す「現実」とはなんのことなんだろうと思うようになった。

開高健の言葉に感じる生々しさは、例えば動植物を接写で撮影した時のものに似ているのかもしれない。

トンボを遠くに見つければ、指をぐるぐると回して誘ってしまうのんきさをもっていられるけれど
その目を接写で撮影したなら、経験の範疇を超える未知と脅威に、私などには到底かなわないと思い知る。

写真家の齋藤陽道さんが、ドキュメンタリー映画『うたのはじまり』のなかで
自分より小さなものはどこか侮る。だから、できるだけ大きく撮影する、というようなことをおっしゃっていた。

私が抱いていた/抱きたいと思っていた「現実味」は、あくまでも私の中にあるもので
「現実」はもっともっと無数に、無限に、そこらじゅうに広がっている。

自分の手の中に抱え込むことで納得したり、安心している場合ではない。

自分の外側にあるものへの、もしかすると内側にあるものへさえも、畏怖と敬意が思うよりずっとずっと必要なのだろう。

内視鏡で自分の内側のピンクや赤色を見た時の感触や、感謝に似たものをことあるごとに思い出そうと思った。