だからきっと、私はまたパンを捏ねる
大事に作ったはいいものの、コーヒーのお供としてしかテーブルにあがれなくなった黒豆煮を
おいしいパンにしたくてうずうずしていた。
ある夜時間ができたので、パン作りを実行。
ほとんどやったことがないので、とにかくおいしくてしっかりしたレシピを見ようと
製菓材料のお店である富澤商店のレシピとにらめっこして作る。
しかし、しかしだ
レシピに書いてあるのは
「ひとまとまりになるまで捏ねる」とか
「なじむまで捏ねる」といったことで
それが具体的にどんな感触なのかまでは書いていない。
パン生地に触れた経験がなさすぎる私にとっては、目安が全くわからない。
「とにかくおいしくてしっかりしたレシピ」っていうのは
手練れたちに向けられたレシピなのだった。
なるほど、そうなると
「なんか違う気がする」という感覚しか頼りにならない。
ちょっとバラバラな感じがするとか
ちょっとベタベタな感じがするとか
ちょっともたもたな感じがするとか
そんな、「正解は知らないけどなんか違う気がする」だけを頼りに
あとは根気だけを持って捏ね続ける。
するとどうだろう、ある瞬間から明らかに、さきほどとは違った心地になってくる。
「こんな感じかもしれない…!」
そんな風にしてそこから、もう少し信じて進むと
「これなのでは!」
という感覚にたどり着く。
そうして歩いたことのない道を、旅慣れた人の書いた地図と自分の東西南北程度の感覚だけをもとに歩いた結果がこちら。
師は言葉少なに、背中で教えるものなのね。
パンを捏ねながら、日々の私に足りないのは
感覚を信じることと根気だな!と思った。
疑いのあるものしか信じられないという厄介な性質がいつも真ん中に据えられているけれど
とりあえず根気を持って進むと、明らかな変化があって、信じるに値するものが感じられることもあるものだな。
ところで、文字は打つより書くほうが楽しい。
漢字の部分を通る時、その部首やなにかによって
そのことばの感触が改めてとれたりする。
最近はよく、空で文字を書いてみたりする。
頻繁に書き方を忘れていることに気がついて、調べて、何度か書く練習をする。
やっぱり、書くほうが打つより楽しいなあと思う。
書くってことそのものの感触も、いい。
そうそう、最近5年近くつかったアイフォンをしかたなく変えたら
ボタンを押すという機能が皆無になった。
だけど、押している風のなんだか微振動のような機能が付いている。
いんや、押したいのだよ、押したいのだ。
これで「押している」と錯覚し始める日が来るのがこわい。
どうして子供の知育玩具にはあれだけボタンがついているのに
どんどん押す場所がなくなっていくんだろうと、この何年も思っている。
(券売機のボタンとかもまた押したいし、切符を吸い込まれるのはやっぱりいい)
だけど、充電がもつようになったのは、あたりまえだけど快適である。