ねぎらい



 

2021年も、終わりますね。

昨日、「中島鉄砲火薬店」の今年の稽古を終えて
こつこつやっていたおせち料理の仕込みを、今終えたところです。

去年から始めたおせち料理作り。

去年は、お煮しめをひたすら一つの食材ごとに丁寧につくることをやってみたのですが
今年はそれに加えて、黒豆や栗きんとん、伊達巻も作りました。

作りながら思い出したのは、とにもかくにも手間と時間のかかること。

でもむずかしいことはないってこと。

黒豆三日というそうで、黒豆をつくるのには三日間が必要でした。

煮込むのは、8時間。

昨日、稽古から帰って、ずっと黒豆を煮ていました。

この8時間は、ただ鍋の中で黒豆が良い具合になるのを待つのが私ができる唯一で最良の仕事で
何かを急いで見たり、頑張って見たって、
なにひとつ黒豆が美味しく煮上がることのためになりません。

そうして黒豆が静かに煮えている鍋を見つめながら
今年はそんな年だったなあと思いました。

上に向かってオー!とか、っしゃ〜!とか頑張るんじゃなくて
地面に向かってずしっとか、がしっと、踏ん張るようなことを覚えようとしていた気がします。

しずかにしずかに、見えることにとらわれないように
見えないところでしずかにしずかに、焦らずできることを探していました。

役者の仕事を始めた時、たしか撮影の現場とか稽古場なんかで
「待つのも仕事のうちだからね」とよく言われた気がします。

そんな思い出とその言葉を漠然と結びつけたままいたのですが

今、黒豆がふっくら煮えたのを見て
もしかして、周りの状況を待つってこと以上に、自分自身を待つことが必要なのかもしれないなあと思いました。

すぐに変わらない自分とか
すぐに形にならない自分とか
なかなか湧き起こらない自分とか

そういう自分を、静かに待てるようになりたいなと
最後にまた一つ、思えた2021年でした。

そうしてそのうち、いつの間に
ふっくらとか、ほくほくとか、つやつやとか
そのときどきの、よい具合になれたら
これはまた幸運です。


今年も、見守ってくださったり、足を運んでくださったり、応援してくださって
本当にありがとうございました。

鵺的の「夜会行」で、公演期間中に無観客で収録をした時
客席に「いない」ということがどれだけ大きいことかと驚いた気持ちが忘れられません。

結果や成果という意味ではなく
きっといつでも「応え」を求めていて
その「応え」があって、いつも次の一息を吸い、吐くことができています。

直接の言葉のやり取りでなくても、そうして見えないやり取りが激しく無数に繰り広げられているんだと思います。

そのことは数値化したり、可視化することはできないけど
たしかに、いつも底知れないちからをいただいています。

ありがとうございます。


今年も本当にお疲れ様でした。

すこやかにここまで辿り着けたこと、ねぎらいあえたらしあわせです。

よいお年をお迎えくださいませ。