寄る辺ないコアラ




電車で一時間ほど行った知らない街で仕事を終えた。

行く前に調べて気になる公園があったから、歩いて行けるだろうと駅で地図を見て歩き始めた。

ら、2時間も歩いてた。

東京を広いなあと思う。
街によって、道の造りや家々の並び方、街に漂う色や空気も全然違う。

人も違う。

飽くことなく、行きたかった公園までたどり着いた。

植物の名前が付いている公園だったのだけど、その植物の見頃ではないことは知っていた。

その公園に生えているどの植物も今だ!という感じではなかったけど、
今じゃないその静けさを公園全体がゆったり含んでいて、かえってよかった。

金木犀や、今だ!という植物が咲いた時、
いつもゆく道にこんなにもたくさん生えていたのか、この木もそうだったのか、といつも驚く。

今じゃない時に、静かにいてくれる時間の恋しさを思う。

ベンチに座って、もうすぐ読み終わろうとしていた小説を最後まで読みきった。

とてもいい気持ちだった。

自分にとって読書に一番いい場所は喫茶店だと思っていたけれど、公園で読むのはとても良かった。

読書の秋というけれど、公園や、空の下で本を読める季節というのはとてもいいものだなあと思う。

大切に過ごそう。


知らない街を2時間歩いている間の心許なさ、寄る辺なさがすきだった。

携帯も充電が切れていて(切れればいいと思って、行きの電車で好きな音楽をたくさん聴いた)さらによかった。

いい街だった。

定食屋でごはんの大きさがわからないで悩んでいたら、そばで食べていたかたが自分のお椀を掲げて見せてくれた。

人が人として、人と接していて、いい街だった。

そういう生き方と、寄る辺なさのようなものは共存するものだと思う。
(というかその上でこそ成り立つような気もする)

そういう風に歩きたいなあ。

きっと忙しさの中で効率的に過ごさなければならない、効率的に何かを満たさなければならないとなると、私は苦しいのだ。できっこないし。

そんなに簡単に何かは満ちないし、満ち満ちていなくていいことに気がつく時間も必要なんだな。


駅に着いたはいいけれど、帰りかたもよくわからないまま路線図を頼りに家路に着いた。

そんな風なのに、また本を読んでいたから、たくさん電車を乗り過ごし、何度も順路を変えた。

乗り換えの駅で宝くじ売場を見つけて、今日はなんだか、と思ったので200円のスクラッチを一枚買った。

すぐに削ったら、200円当たった。

何にも変わらないふりしたラッキーもあるもんだなあと思った。