まあい

すー、はー


ことば、に、することを
えらんだりやめたりしていたら


11月。

最近撮った写真を、よなよなながめてみたら

なんだかどれも淋しげで

その瞬間はそんなことなかったのに

なんでだろう、ふしぎ。


だれもいないからかな、そうか。

朝劇下北沢×松澤くれはさんの稽古が始まって

朝から活動しているから、夕方には眠い。

きのうも、気づけば洗濯機を回しながら寝ていて

ふっと深夜に目覚めてしまった

ら、なんだろう

なにかのゆめをみていたのか

「やさしすぎてさみしい」

みたいな後味を口の中に感じて起きた。

それからどうしようもなく写真を整理していたら
そんな感じの景色ばかりだった。





興奮することも
幻滅することもなく
穏やかな秋の、適温の、日中を過ごしている。

そういう時間に確認したり見つけたりすることは

きっと確かに思えて
ウンウンと頷いている。

それでもこんな夜中に時折見える

やさしすぎてさみしいみたいな後味は
なんだろうか。

何かを得たら何かを失う

というのでもなく

何も得なくたって何かを失っていく

みたいな

どうしようもない
自然の
時間の
ながれみたいな。

おだやかでも、うごめいているものはいつでもあって
何を得ようとしなくても
大きな希望を抱かなくても
傷をえぐらなくても
何かを渇望しなくても

毎時毎秒、こぼれていく。

そういうものなのだな、と
地平に、平らかな皮膚に
そっとしまう。

そういうものだ。

悲観的でも感傷的でもない。

それはただ、細胞が生まれ変わるサイクルの一部で

きょうはまた、あたらしいことを
手に取れるようになる。

同じ映画をあのときみたのと
きょうみたのでは
入ってくる言葉や景色がまったくちがうみたいに。



日々の、稽古のなかで、とてもおもしろいことがあって

それは、日々の自分自身の変化と
とても密接につながって起きていることのように思う。

何年も、できなかったこと
じぶんのきらいだったところ

すこしだけ、変われるような

できるような予感がしている。

自分じゃ、的確にはわからないけれど

予感。

どうしてもわたしは
生きているなかの全てを
別個にして捉えたり実行することができないから

そのぶん

こうして
日常と、芝居をすること、が
そのなかで試みることが
実直につながっているのを感じると

生きるのっていいな、とおもえる。

そうそう
つまりは
生きるということがしたいだけなのだということが

今年の、再確認したこと。