脚本家になって10年が経つらしい

高校二年生、16歳の時に脚本家になった。

未だにその数字を見ると他人事のようで

未だに誰かにそんな紹介をされるたび
へらへらすることしかできないのだけれど

もうすぐ脚本家になって10年が経つらしい。

おどろき。

10年とはいえ、書いていない時間もそれなりにあったので
胸張って10年!と言えるかと言われたら

これもまたへらへらするしかない。

いや、そんなへらへらするしかないのがいやで

名ばかりの脚本家であることが嫌で

自分ができることでなく
やれることのかぎりをやってみようと

一度フリーランスになった2年半前頃から
たくさん書くようになった。

みじかいものもたくさんふくめてだけれど
2年半の間に9本は書いたみたいで

すこしはしゃんと
脚本を書きます!と言えるようになった。

先日、関森絵美ちゃんにあてた一人芝居を書き終えて9本になったのだけれど

これはすこし、変わり目になりそうな脚本で
約10年ぶりに怒りを込めた気もしないではない。

わたしの脚本デビュー作は、若松孝二監督が撮ってくださった。

脚本打ち合わせの時若松監督は
「今一番怒っていることを書け」と言った。

高校生だったわたしは
自分の身の回りの
近いのに遠い、
遠いのに近い、
距離感の掴めない人間関係への怒りを書いた。

書き出したら止まらなかった。

一気に書き上げた。

ひさびさに怒りをもとに書いた感覚は
あの時より速度は落ちて
鼓動の早さが10年分遅まったのだなと思ったけれど

リズムは同じようにするすると
文字が流れ出る感覚だった。

日本最年少脚本家を生み出す、と
冒険してくださった丹波多聞アンドリウプロデューサーがいらっしゃらなかったら
わたしは脚本なんて書く人生じゃなかったし

若松孝二監督が書くことの衝動について教えて下さらなかったら
わたしはきっと今まで
脚本を書き続けていない。

そして実を言うと
若松監督におそわった
芝居のありかたを
今の今まで根本でやってきたので

芝居についても、若松監督がいなかったら
きっとここまで続けて追求しようと思わなかった。

こんなはなしをするはずではなかったのだけど
はなし出したらこんなはなしだった。

ものがたりというのはそういうものだし
脚本を書くに至るとも、芝居をすることになるともおもわなかった
わたしの人生だってそんなものだ。



先日、日本劇作家協会のリーディングに参加した。

「食べるを読む。」と題し
横山拓也さん『エダニク』
丸尾聡さん『離宮のタルト』
前川知大さん『天の敵』
岸田理生さん『料理人』
といった、食べ物にまつわる戯曲を読んだ。

戯曲を書いたばかりだったこともあって

こんなに同時に
様々な人の戯曲に触れることはとても新鮮で
それぞれの戯曲にあることばのリズム、質感であったり
ものすごく新鮮に浮かび上がってどきどきした。

ト書きには
その物語の時間の流れ方が書いてあって
背景に流れている空気がよくわかった。

不勉強を実感すると同時に
その無知の知は心地よいものでもあって
気持ち良いことばのシャワーを浴びるように読んだ。

そう、読んでいて気持ち良い。
口に、目に、耳に、心地いい。

それは食事にも似ているなと思った。

また、ご一緒させていただいた役者さん方が
みなさんほんとうにすばらしく
そこに一緒に立てる
こんなに美しい戯曲をともにできる
スパイスのような演出を受けてみんなで調理する
1日限りの贅沢に、うっとりした。

戯曲をリーディングすると
素材のままの味がよく出る。

戯曲も、役者も。

そんな素っ裸の状態は
意外にも怖くもなく
素直に自分の小ささを知りながら楽しんだ。

とてもとてもうれしかった。

役者にも脚本家にもなるなんて思ってなかった

でもその日わたしは

役者としても脚本家としても
途上も途上だけれど
その身丸ごとうれしかった。

へらへらもしなくていいし
かといって気張らなくてもいい。

ただ、こうしてきょうも取り組んで
すてきな人や物語に出会えることを
とてもとてもうれしくおもった。